大学駅伝との出会い
箱根駅伝の中継所のある鶴見で生まれ育っているので、箱根駅伝の存在は小さい頃から知っていましたが、小学生頃までは興味はまったくありませんでした。
初めて箱根駅伝をTV観戦したのは私が中学生の頃の1993年大会。早大の7区の武井選手が圧倒的に速かったのが印象的でした。
翌年1994年大会はあまり覚えていなくて、山梨学大2区のマヤカ選手が何となく印象に残っているくらいでしたが、1995年大会は良く覚えています。
1区では山梨学大の中村選手がぶっち切りのトップになり、2区では山梨学大マヤカ選手と早大渡辺選手の区間新記録対決。
早大は3区、4区でも区間新記録を連発し、とにかく派手な大会でした。
早大、山梨学大のスーパーエース達の派手な走りを何度も見ているうちに、徐々に駅伝という物に興味が湧いてきました。
1995年大会は、親戚のおじさんに連れられて中継所にも行っています。
そこで配っていた新聞をもらいました。
学生新聞早稲田スポーツ。
この新聞で興味を引かれたのは、選手の1万mのタイムというものでした。
渡辺28分7秒、小林正幹28分56秒、小林雅幸28分22秒。
早大のトップ3はいずれも28分台。
そしてこの3人は箱根で区間新記録3連発を見せ、1万m28分台の選手は凄い選手だと強烈にすり込まれました。
中継所では他にも、
報知新聞も配っていました。
これには全チームの選手の1万mのタイムが載っていて、これにも興味を引かれました。
1995年に15歳だった私は、ドラゴンボール直撃世代。
1万mのタイムというのは、まるでドラゴンボールの戦闘力のように感じて面白かったのです。
それでもまだこの時点では、自分が駅伝を見たり予想したりするのが趣味になる日が来るとは夢にも思いませんでした。
きっかけは1995年11月。
箱根駅伝の前哨戦、全日本大学駅伝でした。
早大の渡辺選手の逆転劇で有名な大会ですが、それ以外にも凄く見応えのあるレースでした。
1区には箱根4区で区間新記録の早大の小林雅幸選手が登場し、集団を軽く引き離し、亜大のアフリカ人選手をも突き放して、ぶっち切りのトップになります。そのインパクトは凄かった。
2区〜4区で中大が快走を連発してトップに立ち、5区ではそれまで目立たなかった神奈川大が一気にトップまで追いつきます。
6区で中大が神奈川大を1分も突き放し、7区では神奈川大が区間新記録の走りで中大を抜き返しました。
そしてアンカー8区。
中大と神奈川大のトップ争いは中大に軍配が上がったものの、後方1分31秒の大差から一気に大逆転を見せた渡辺選手の爆走により、早大が4連覇を達成。
マラソンとは全く違い、何度も攻守が入れ替わる複雑さに、駅伝の面白さを感じたのでした。
渡辺選手の強さにも感動したけど、ギリギリの所で負けてしまった中大の松田選手の悔しそうな姿も忘れられないものがありました。
その後、本屋で陸上雑誌を発見し、立ち読みをして凄まじい衝撃を受けました。
記録表が載っていて、逆転負けをした中大の松田選手が区間3位、トップから4位まで順位を落とした神奈川大の重田選手が区間6位という成績である事を知ったからです。
23人の中での成績なので、これは上位と言える成績です。
TVでは1流の渡辺選手が2流、3流の選手を抜くように見えたけど、現実は全く違いました。
TVでは伝わらない駅伝の真実を知りました。
ダイナミックに動くレース展開という表面的な面白さと、その裏に隠れた真実という、二つの面から駅伝の魅力を知り、駅伝に非常に興味がわきました。
それ以来すっかり大学駅伝にはまり、現在に至ります。
家族や友人からは、そんなに駅伝が好きなら自分で大学駅伝の選手を目指したら?と良く言われましたが、自分で走る事には興味がわかない上に、私は高校はおろか中学校も登校拒否した身なので、全く考えもしませんでした。
大学という物に全く無縁なのに、大学駅伝にはまってしまいもう20年以上。
多分これはもう、一生物の趣味でしょう。
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