山の名選手たち 山下り6区編



山上りと比べて地味な印象の山下りは、選手の凄さがわかりづらいケースが多いです。
5区以上にマニアックに語ります。
山上りと同様に1996年大会以降に活躍した選手をピックアップして語りました。



90年代以降に使われた6区のコースの歴史

95年大会以前の名選手

小栗一秀 (専大)

河合芳隆 (駒大)

中澤晃 (神奈川大)

金子宣隆 (大東大)

宮井将治 (順大) & 永井順明 (中大)

野村俊輔 (中大)

千葉健太 (駒大)


市川孝徳 (東洋大)

廣瀬大貴 (明大)

秋山清仁 (日体大)





90年代以降に使われた6区のコースの歴史

86年〜99年コース
1986年、前年から0.1km延長されて、20.6kmのコースとしてスタート。

1991年、コースの再計測の結果20.7kmに表示が改められる。



00年〜14年コース
2000年、コースの一部が変更になり、新コースになる。変更点は5区と同じで旧街道を通らなくなった事。
距離は僅か4m長くなる。
距離表示は変わらず20.7km。

2005年、コースの再計測の結果20.8kmに表示が改められる。



15年〜コース
2015年、5区と同じく函嶺洞門を迂回する為コースの一部が変更になり、新コースになる。
それまでのコースより約20m長くなる。
この年は再計測も同時に行われているが、距離表示は変わらず20.8km。





95年以前の名選手

私が駅伝オタクになる以前なので本からの知識ですが、86年〜99年コースでは、88年に順大の仲村選手が初めて60分切りを達成する59分26秒を記録し、90年には大東大の島嵜選手が59分21秒まで記録を伸ばしています。

他には、95年に東洋大の1年生佐藤選手が59分45秒というハイレベルなタイムを出しています。

当時のレベルを考えると、1年生としては驚異的な記録だったと思われます。

佐藤選手の記録は、同じコースが使用された99年まで、1年生選手では誰も破る事が出来ず、ほぼ同じコースの00年以降を含めれば、15年間も事実上の1年生最高記録として残りました。



86年〜99年コース以前にも、日体大・谷口選手という山下り史上最強クラスの名選手もいますが、私が駅伝オタクになる遥か以前の事なので語る事は出来ません。





小栗一秀 (専大)

(86年〜99年コース)
94年 区間6位 1時間00分54秒
95年 区間11位 1時間01分39秒
96年 区間9位 1時間01分57秒
97年 区間1位 59分07秒 区間新記録



専大の小栗選手は、4年生の時に追い風の吹く好条件ではあったものの、59分07秒の区間新記録を樹立し、4度目の挑戦で、自身初の60分切り&区間賞獲得を達成しました。

小栗選手は4年連続で6区を走った選手で、1年生の時の61分切りは当時としてはレベルの高い記録ですが、3年生まではそれほど目立つ存在ではありませんでした。

私は小栗選手が3年生の時の96年大会から箱根駅伝オタクになっていますが、4年生の時に区間新記録ペースで6区を走っている姿がテレビで放送されるまでは名前を知りませんでした。

しかし詳しく調べると、小栗選手は区間新記録だけの選手ではありませんでした。



小栗選手が4回走った6区の平均タイムは60分54秒25であり、これは86年以降のコースにおける、4回平均の最高記録です。

86年以降の6区において、区間タイムで60分切りの記録を出した選手は97年大会終了時点で10人いて、記録の数では12例ありますが、4回平均で61分を切ったのは小栗選手の1例だけでした。

つまり、単発で59分台を出すよりも、4回平均で60分台を出す方が難しいのです。



人生で4回しか走る事の出来ない箱根駅伝で、4回同一の区間を走るのは、実力はもちろん、体調管理やケガをしない事、それにチーム事情と言った運の要素まで必要になってきます。

それらすべてを乗り越えて、4年連続で同じ区間を走り、その4回の平均タイムで歴代最高の記録を残すというのは、その区間の王者と言っても過言ではないと思います。

山下りの6区のように、その区間にこだわりを持つ選手の多い専門性の高い区間ならば尚更でしょう。



小栗選手が卒業した次の年に6区にデビューした神奈川大の中澤選手があまりにも強烈なので、小栗選手は忘れられがちだと思いますが、6区の歴史を語る上では外せない選手だと思います。





河合芳隆 (駒大)

(86年〜99年コース)
96年 区間10位 1時間02分01秒
97年 区間2位 59分42秒
98年 区間4位 1時間00分26秒
99年 区間6位 1時間00分20秒



駒大の河合選手は、1年生の時は区間10位の成績で、それほど目立ちませんでしたが、以後3年間、良くも悪くも目立つ事になります。

2年生の時は追い風に乗り59分42秒、区間2位の走りを見せます。

初の復路優勝を達成したチームに大きな貢献をしました。



3年生になった河合選手は、前年の実績から区間賞候補筆頭でした。

トップの神奈川大とは13秒の僅差で復路のスタートをした河合選手。

ここで河合選手がトップに立てば駒大初の総合優勝の可能性も見えてきそうな状況です。

しかも、神奈川大の6区の選手は無名の選手。

河合選手がヒーローになる為のお膳立てがされたかのような美味しいシチュエーションでした。

しかしトップの神奈川大の中澤選手は、まだ世が気付いていない下りの天才でした。

河合選手は、才能を発揮した中澤選手に大きく差を広げられてしまい、神奈川大に総合優勝への決定打を打たれてしまう形になってしまいました。



4年連続で挑む事になった4年生の時の6区では、ベテランらしい堅実な走りで終始先頭を独走します。

しかし、後方で順大にじわりと差を詰められており、この年9区で順大に逆転される遠因の一つになってしまいました。

この様に書くと、河合選手は2年生の時以外はあまり活躍していないような印象かも知れませんが、2年生から4年生にかけて、59分台、60分台前半、60分台前半と、爆走は出来ずとも好タイムで安定しており、4回の平均タイム60分37秒25は、専大の小栗選手のタイムを更新する当時の歴代最高記録でした。

また、「60分30秒切り3回」は90年代の有名な下りのスペシャリスト達でも達成出来ていない記録であり、河合選手は86年〜99年コースでの唯一の達成者です。



同学年の神奈川大の中澤選手の様に、他を圧倒する様な走りをする事は出来ず、むしろ引き立て役になってしまった感のある河合選手ですが、積み上げた実績の合計は素晴らしかったと思います。

そして、それだけ高いレベルの実績がある選手でも、それでも活躍出来ない事もあるという所に、個人競技の積み重ねによる団体競技という、駅伝の複雑さ、深さを感じました。

河合選手も、専大の小栗選手同様に山下りの歴史の中で語られる事はあまりないと思いますが、地味ながらも名選手だったと思います。





中澤晃 (神奈川大)

(86年〜99年コース)
98年 区間1位 58分44秒 区間新記録
99年 区間1位 58分06秒 区間新記録



98年大会、山下り史上に残る衝撃的な走りをする事になる神奈川大の中澤選手が6区にデビューしました。

98年大会の6区でトップでスタートしたのは、神奈川大の3年生の中澤選手。

箱根駅伝初出場ということで実績はなく、13秒後方から前回の区間2位の実績のある、駒大の河合選手に追いかけられる展開でした。

解説の碓井哲雄さんも、「駒澤(前回区間2位)と山梨(前回区間3位)が神奈川に追いつくんじゃないかと思うんですよ」とコメントしていました。

碓井さんを含めて、無名の中澤選手がトップを守れると予想する人はあまりいなかったと思います。

しかし中澤選手は守るどころか、むしろ駒大を引き離して行きます。



小涌園通過時には2位駒大との差は46秒まで開き、前回の区間2位選手が全く歯が立たない強さを見せつけました。

函嶺洞門通過時点で、中澤選手のタイムは区間記録よりも8秒早いペース。しかし、区間新記録が出るとは思いませんでした。

前年、専大の小栗選手が区間記録を出した時は追い風が吹いていました。

曲がりくねったコースでは追い風の影響は少ないものの、函嶺洞門を過ぎた先の道は直線気味であり、追い風の影響を強く受けやすい状態になります。

前回追い風が強かったその部分を、今回は無風の中で走るので、かなり良いタイムが出るだろうけど59分07秒の区間記録には届かないだろう、そんな駅伝オタクの予想を覆し、中澤選手が小田原中継所で次の走者にタスキを渡した瞬間、画面に表示されている区間タイムは58分44秒で止まりました。

追い風が吹いた年に出された記録を、無風の中で23秒も塗り替える堂々の区間新記録。

4年連続で6区を走った選手が4年目に出した記録を、初出場で軽々と更新。

そして、86年以降の現行の6区の距離とコースでは、初となる59分切りの快挙を達成。

スタート時に13秒だった2位の駒大との差は1分55秒にまで開き、中澤選手は神奈川大の総合2連覇の立役者になりました。



4年生の時の99年大会では、チームの往路の不振により、6位からのスタートでしたが、1人を抜き5位に上がりました。

57分台の期待もかかる超ハイペースで飛ばし、終盤は前年と比べると流石にペースが落ちたものの、それでも前年のタイムを38秒も更新する58分06秒の区間新記録を出し、2年連続の区間賞を獲得しました。

区間2位と3位の選手も60分切りを達成していましたが、中澤選手は区間2位に1分34秒差、区間3位に1分52秒差をつける次元の違う強さを見せつけました。



中澤選手の58分06秒というタイムは、80年代に活躍した日体大の谷口選手とどちらが早いのか判断が難しい所です。

谷口選手の時代よりもコースの距離が100m長いのならば、谷口選手の方が僅かに早いという事になります。

公式には谷口選手の走ったコースから0.1km延長されて中澤選手の走ったコースになっています。

しかし200m差という説もあり、はっきりした事はわかりません。



2年連続で区間新記録で区間賞を取り、1人で区間記録のレベルを1分1秒も引き上げ、58分台しか知らずに卒業していった中澤選手の登場は、6区では60分を切れば一流と言われていた90年代の箱根駅伝の常識そのものを変えてしまいました。



中澤選手が卒業した後、コースの変更距離を考慮して、6区で中澤選手より速い選手が登場するのは2016年大会の事です。

2000年大会から6区のコースが微妙に変更されてしまい、たった1年間で中澤選手の記録が参考記録になってしまったのは残念です。

17年間は残るはずの区間記録が消えてしまったのですから。



中澤選手は競技力以外でも、キャラクターの面でも強烈でした。

陸上雑誌に載っていた中澤選手の言葉、「他の区間を走るなら6区の付き添いをしたい」は、箱根駅伝史上屈指の名言と言えます。

4年生の最後の箱根駅伝を走り終えた直後には、カメラに向かって「神大諦めんなよ!」と気合いの入った檄を飛ばしてテレビを見ている仲間を鼓舞し、インタビューでは、総合優勝は厳しいという現状を踏まえて、仲間に向かって「復路優勝やろうぜ」と、渋く言い放っていました。

これほど個性的な選手はそうそういないと思います。

山下りの6区にはその後も、大東大・金子選手、中大・野村選手、駒大・千葉選手、そして日体大・秋山選手といった、中澤選手に勝るとも劣らない実績を残す山下りのスペシャリストは出てきますが、山下りのヒーローとまで呼べるのは中澤選手1人だけだったと、今でも思っています。

大学卒業と同時に競技生活にピリオドを打った中澤選手。それを惜しむ声に対しての陸上雑誌に載っていたコメントがまた渋い。

「陸上競技以外にもやりたい事がたくさんあります。陸上という武器がなくても勝負できる自分でありたい」





金子宣隆 (大東大)

(86年〜99年コース)
99年 区間3位 59分58秒
(00年〜14年コース)
00年 区間4位 59分47秒
01年 区間1位 58分21秒 区間新記録
02年 区間1位 59分04秒



新旧コースにまたがった記録ではあるものの、4年連続60分切りという前人未到の偉業を達成したのが大東大の金子選手です。

99年大会は、神奈川大の中澤選手が圧倒的な強さを見せて最後の山をかけ下った年ですが、後方の一斉スタート組の中には60分切りのペースで好走する1年生の金子選手の姿がありました。

金子選手は59分58秒の好記録で区間3位に入る見事な箱根デビューを果たし、中澤選手卒業後の6区は金子選手の時代になるのではないかと駅伝ファンに予感させました。



2年生の時はライバル達が手強く、順位は一つ下がり区間4位でしたが、タイムは前年よりも伸ばして59分47秒を記録します。

そして3年生の時は、58分21秒まで一気に記録を伸ばし、順大の宮井選手や中大の永井選手を上回る区間新記録を樹立し、初の区間賞も獲得します。

4年生の時は、前年ほどはペースが上がらなかったものの、59分04秒のタイムで2年連続の区間賞を獲得し、史上初の偉業、6区4年連続60分切りを達成しました。



4回平均タイムは2つのコースにまたがった記録ではあるものの59分17秒50にまで到達しました。

このタイムは以前の最高記録である、駒大・河合選手のタイムを約1分20秒も上回る物であり、4年連続60分切りなので当たり前ではありますが、初の4回平均タイムでの60分切りでもありました。



神奈川大の中澤選手と比べると、走りのインパクトや最高タイムでは劣りますが、総合的な実績ではどちらが上なのか判断が難しいです。

タイプが真逆の両者なので、中澤選手が野球の本塁打王ならば、金子選手は首位打者と言った所でしょうか。

02年大会終了時点では、金子選手は中澤選手と共に、86年大会以降の山下りの歴史の中では、他の選手とは別格の偉大なランナーと言えます。





宮井将治 (順大)

(86年〜99年コース)
99年 区間4位 1時間00分02秒
(00年〜14年コース)
00年 区間3位 59分32秒
01年 区間2位 58分29秒 区間新記録



永井順明 (中大)

(00年〜14年コース)
00年 区間1位 58分35秒 新コース区間記録
01年 区間3位 59分13秒



00年大会と01年大会でハイレベルな攻防を見せてくれた2選手をまとめて紹介します。

00年大会では、5位でスタートした順大の3年生宮井選手が、濃い霧の中でハイペースで飛ばし、16秒先にスタートした中大の3年生永井選手に追いつきます。その後は2人で前を追い続けました。

他の選手は軽々と抜いた宮井選手ですが、永井選手だけは突き放す事が出来ず、後半になり余力のある永井選手が一気にペースを上げると、ついて行く事が出来ませんでした。

永井選手の後半のペースアップは凄まじく、区間タイムは58分35秒を記録します。

ハイレベルなタイムを2000年から使用された新コースの初代区間記録として残しました。

後半に突き放されてしまった宮井選手も59分32秒という好記録を出していました。



両選手が最終学年を迎えた01年大会は、トップでスタートした永井選手を、8秒差の2位でスタートした宮井選手が追う展開。

宮井選手が永井選手に追いつくと、前年とは違いあっさりと単独の首位に立ちます。

宮井選手は前年の永井選手の区間記録を上回る58分29秒を記録します。

大東大の金子選手にタイムで負けてしまい、区間新記録で区間2位の成績でしたが、宮井選手は区間記録保持者本人を抜いて区間新記録を出すという形でリベンジを達成しました。

抜かれた永井選手も、序盤にあっさりと首位陥落してしまったものの、小涌園以降は宮井選手と互角に近い走りで、タイムも59分13秒という好記録でした。



総合的に見ると、宮井選手は2年生の時にも6区を走り、先頭の駒大を追い上げ、チームの逆転優勝に貢献しているので、宮井選手の方が山下りの選手として格上だと思いますが、両選手が直接対決した3、4年時に限ればほぼ互角と言えます。

ベストタイムを比較すれば、宮井選手58分29秒に対して、永井選手は58分35秒であり、宮井選手が上を行きます。

最高順位では、区間賞を1回獲得した永井選手に対して、宮井選手の最高成績は区間2位なので、永井選手に軍配が上がります。

積極的に飛ばす迫力ある走りが印象的な宮井選手に対して、勝負所の見極めや、相手の力を利用する上手さが光る永井選手。

3年生の時は永井選手が57秒勝ち、4年生の時は宮井選手が44秒勝つという、甲乙つけがたい実力を持った両選手でした。

この2人の戦いは、決して熱い戦いではなかったかも知れませんが 、駅伝マニアをうならせる物があったと思います。

山下りのスペシャリストは生まれる時代がずれる事が多く、宮井選手と永井選手の対決は、山下りにおける同学年の最高のライバル対決と言えると思います。



ちなみに、4年生の時の対決では、山下り史上初の出来事がありました。

2位で芦ノ湖をスタートして小田原中継所にトップで飛び込んだ宮井選手は、59分13秒で走った永井選手を抜きました。

6区で60分を切った選手を追い抜いて順位を上げた初の例がこの年の宮井選手になります。

逆に永井選手は60分を切ったのに順位を落としてしまった初の例になります。

永井選手にしてみれば不名誉な記録かも知れませんが、これは2人の戦いがそれまでの6区の常識を覆すレベルの対決だった事を表す証拠と言えます。





野村俊輔 (中大)

(00年〜14年コース)
02年 区間3位 59分49秒
03年 区間1位 58分54秒
04年 区間1位 58分29秒
05年 区間1位 1時間00分01秒



大東大の金子選手が4年連続60分切りを達成した02年大会。

金子選手の14秒後ろでスタートした1年生選手が中大の野村選手でした。

流石に金子選手のペースについて行く事は出来ず、芦之湯の地点では51秒差に広げられてしまいますが、その後は小田原中継所までほぼ同じタイム差をキープする走りを見せて、最終的には59分49秒区間3位の好タイム、好成績を残します。



2年生の時には雪が降り、コースの半分程は雪路を走る中で、前年よりも約1分タイムを伸ばし58分54秒を記録。

他の選手が安全な走りに徹し、60分を切れない中で区間2位に1分33秒差をつける圧巻の走りで4人抜きを見せました。

3年生の時は気象条件も良く、当然前年よりもタイムを伸ばします。

区間歴代2位となる58分29秒を出し、13位からの5人抜きを見せ、軽々と区間賞を獲得。

区間2位に1分27秒差をつけ、2年連続で他を圧倒しました。



4年生の時はいまいちペースが上がらず60分01秒に終わります。

周囲のレベルがあまり高くなかった事もあり、区間賞は獲得出来たものの、4年間で最も悪いタイムであり、4年連続60分切りも達成出来ませんでした。

野村選手とは思えないような区間タイムだけに、何かアクシデントでもあったのかと思ってしまいましたが、陸上雑誌のインタビューには、体調は悪くなかったと語っているので、気負いやペース配分のミスだったようです。



野村選手の残した4回平均区間順位1.5位という記録は、出場回数が4回までに制限されてからは歴代最高記録でした。

4回の平均タイム59分18秒25も、4回同一のコースに限ればこの時点での歴代最高記録です。

4年生の時こそ実力を出し切れなかった野村選手ですが、安定感はむしろ高い選手と言えます。

そして安定感と共に、2年連続で区間2位に1分半の差をつけて区間賞を獲得する爆発力も併せ持っていました。



爆発力では旧コース時代に区間新記録を連発し57分台の目前まで迫った神奈川大の中澤選手に、安定感では4年連続60分切りを達成した大東大の金子選手に、それぞれ及ばないと思います。

しかし理由はどうあれ中澤選手は1、2年生の時には出場すら出来ず、金子選手はライバルが強かったとはいえ区間2位につけた最も大きな差は17秒であり、自身が区間1位に1分以上の差をつけられるケースが2回もありました。

60分を切れない事があったり、ベストタイムが58分台の中盤に留まるなど、完璧な成績とは言えませんが、 爆発力と安定感の両方を合計すれば、野村選手は山下りの2大巨頭を超えたと言えるほどのインパクトのある選手でした。





千葉健太 (駒大)

(00年〜14年コース)
10年 区間1位 59分44秒
11年 区間1位 58分11秒 区間新記録
12年 区間5位 59分39秒
13年 区間1位 58分15秒



06年〜09年の6区は、58分台を出した選手なし、59分台を複数回出した選手なし、区間賞を複数個取った選手なし。

05年までは毎年名選手が6区を盛り上げてくれていたけど、06年からの4大会は主役不在と言える状態でした。

そんな山下り冬の時代に現れたのが駒大の千葉選手です。

千葉選手は非常に高いレベルでなおかつ穴のない実績を残しており、山下りで最も偉大な選手候補の一人です。



10年大会、1年生の千葉選手はいきなり6区の区間賞を獲得します。

1年生が6区を制するのは39年ぶりという快挙でした。

区間タイム59分44秒は、若干距離の短いコースで出された95年大会の東洋大・佐藤選手の記録をも上回り、事実上15年ぶりの1年生最高記録の更新でした。



2年生の時には一気にタイムを伸ばし、58分11秒を記録します。

それまでの区間記録を10秒更新する区間新記録を樹立し、2年連続の区間賞を獲得します。

6区の超スペシャリスト達の中では珍しく前半を抑え目に入る、独特のペース配分で2人を抜き、8位から6位へ上がりました。

3年生の時は区間5位といまひとつの順位でしたが、それでもタイムは60分を大きく切り、59分39秒を出しています。

4年生最後の年の6区は、若干追い風気味の年で、60分切りが多数出る状況ではありましたが、自身の区間記録に4秒差まで迫る58分15秒を出して、3回目の区間賞を獲得し、有終の美を飾りました。



4年連続60分切りは史上2人目ですが、同一のコースに限れば史上初の快挙でした。

そして何より凄いのは4回の平均タイムで、史上初の59分切りにまで到達する58分57秒25を記録しました。

これがとれだけ凄いのか説明するのには、少し過去の記録を振り返る必要があります。



千葉選手が走った6区は、00年〜14年に使われたコースですが、それ以前に使われた86年〜99年コースも距離が僅か4m短いだけであり、ほぼ同じコースと言えます。

便宜上86年から千葉選手の時代までを同じコースとして過去を振り返ってみます。



86年以降、初めて59分台の区間記録が生まれたのは88年大会です。

6区を4年連続で走り、4回の平均タイムで60分台を記録したのは97年大会が最初です。

59分台の区間記録が生まれた9年後に、4回平均タイム60分台が達成されています。

また、97年大会終了時点で過去に59分台を出した事のある選手は合計10人いました。

これは、単発で59分台を出すよりも、4回平均で60分台を出すほうが難度が上である事を意味しています。



レベルを1分引き上げても同じで、58分台の区間記録が初めて生まれたのは98年大会で、4回平均59分台が初めて達成されたのは02年大会です。

02年大会終了時点で過去に58分台を出した事のある選手は4人いました。



そして13年大会、千葉選手は4回平均タイムで58分台を出します。

しかしその時点で、57分台の区間タイムを出した事のある選手はまだ1人もいませんでした。

ここが千葉選手の凄い所です。

つまり千葉選手の出した4回平均58分台の記録は、本来ならば57分台の区間記録が出た後に生まれるべき記録なのです。

まだ誰も57分台すら出せていないのに、より難度の高い4回平均58分台は出してしまったのだから、これは時代を先取りした凄さがあると思います。



千葉選手は6区以外の区間を走りたいと発言する事もあり、クールに山下りに挑んでいました。

そのクールさがあるからこそ、前半をしっかり抑えて、後半にペースを上げるあのペース配分が出来たのかも知れません。

心構えもペース配分も、それまでの山下りのスペシャリストとは正反対ですが、 千葉選手は新しい時代の山下りの名選手だったと思います。

それに、長距離走はメンタルがとても重要で、上りや下りが延々と続くような特殊区間は尚更、精神面が大事になります。

嫌々6区を走る選手にあれほどの大活躍が出来るわけはないので、千葉選手の精神面の強さやチームの為に尽くす気持ちの切り替えも見事だったと思います。





市川孝徳 (東洋大)

(00年〜14年コース)
10年 区間9位 1時間00分55秒
11年 区間3位 59分58秒
12年 区間1位 59分16秒
13年 区間4位 59分16秒



市川選手は1年生の時にはトップでスタートし、終始先頭を独走し、60分55秒区間9位というまずまずの走りを見せます。

2年生の時もトップスタートで、59分58秒の好記録で走りますが、早大に抜かれて2位へ落ちてしまいます。

3年生の時は、再び2位以下に大差のついた状態でトップでスタートし、59分16秒の自己ベストタイムで初の区間賞を獲得します。

4年生の時も前年と同じ59分16秒で走ったものの、区間順位は4位でした。

この時は3位でスタートし、2分以上も前を行くトップの日体大を追う展開でした。

市川選手は2位へと上がりましたが、トップの日体大も好走しており、僅かに差を詰めるだけに留まりました。



市川選手は4年連続で6区を走り、59分台を3回出し、区間賞を1回獲得した経験もあり、十分に山下りの名選手と呼べる実績を残しました。

しかし、同学年の駒大の千葉選手との対決では1勝3敗で負け越し、負けた3敗はすべて1分以上の差をつけられていました。



市川選手が最後の箱根を走り終えた時、4回の平均タイムは59分51秒25で決まりました。

4回平均60分切りは、山下り最高クラスの実績を残した大東大の金子選手、中大の野村選手に続く史上3人目の快挙でした。

しかしここでも、市川選手が襷を渡した僅か数分後に、駒大の千葉選手が史上4人目となり、さらに史上初の4回平均59分切りにまで到達してしまいました。



千葉選手が常にトップとは無縁の地味な位置を走っていたのに対して、市川選手は6区をトップでスタートした事が3回あり、残りの1回も3位でスタートして2位へ上がりトップを追いかけるという、常にスポットライトの当たる華やかな位置を走っていました。

そんな市川選手を不運の選手と呼ぶのもなにか似合わない気がしますが、千葉選手が凄すぎて、格の違いを見せつけられてしまうケースが多かったのはやっぱり不運だったと思います。

間違いなく名選手だったのですが。





廣瀬大貴 (明大)

(00年〜14年コース)
11年 区間17位 1時間01分44秒
12年 区間8位 1時間00分19秒
13年 区間2位 58分19秒
14年 区間1位 58分16秒



廣瀬選手は1年生の時に区間17位、2年生で区間8位、3年生で歴代最高クラスのタイムをたたき出して区間2位になるなど、とてつもない成長を見せてくれました。

1、2年生の時には特に目立つ成績ではなく、駅伝オタクの私でもノーチェックでしたが、3年生の時には59分台を飛び越えていきなりの58分台を記録します。

4位でスタートした廣瀬選手は3位へと上がり、前を行く東洋大の山下りの達人である市川選手を相手に差を詰めて行きました。

区間タイムは、大東大の金子選手や中大の野村選手などの歴代の強豪のベストタイムを上回る58分19秒という見事な爆走でした。

4年生の時には7位から5位に上がる走りで、タイムは区間記録に5秒差まで迫る区間歴代2位の58分16秒を出し、初の区間賞を獲得しました。



廣瀬選手の4回の平均タイムは59分39秒50でした。

59分台を一度も出した事がないのに、平均タイムでは59分台になるのはある意味快挙です。

4回平均タイムの近い東洋大の市川選手と比較してみると、市川選手の4回のタイムが60分を中心にマイナス44秒〜プラス55秒の範囲に収まっているのに対して、廣瀬選手はほぼ2倍のマイナス1分44秒〜プラス1分44秒となっており、失敗はあっても爆発力でカバーするタイプの選手でした。

4回平均58分台は、59分台で安定するタイプの選手には、当然ですが絶対に出す事は出来ません。

爆発力タイプの廣瀬選手には出せる可能性があっただけに、1、2年生の時のタイムが惜しいと感じてしまいました。





秋山清仁 (日体大)

(15年〜コース)
15年 区間4位 59分29秒
16年 区間1位 58分09秒 区間新記録
17年 区間1位 58分01秒 区間新記録



比較的5区の山上り最強のランナーは分かりやすいのに対して、6区の山下り最強のランナーは、候補は多くても最高の選手と断言するにはやや決め手にかける印象ですが、この秋山選手こそ現時点での山下り歴代最強ランナーではないでしょうか。



15年大会、2年生の秋山選手は6区に初出場し、59分29秒区間4位という好記録好順位で走り切ります。

そして翌年の16年大会では、一斉スタートの集団を抜け出すと、13位から7位まで順位を押し上げる快走。

一斉スタートの影響で抜いた人数は5人でしたが順位を6つも上げます。

前年から劇的にタイムを伸ばし58分09秒の区間新記録を樹立。

早大の実力者である三浦選手が残した従来の区間記録を22秒も超えました。

このタイムは、99年大会に現在よりも約24m短いコースで出した神奈川大・中澤選手の58分06秒と比べても僅かに上回る記録であり、事実上17年ぶりの6区の記録更新でした。

また、6区の歴代最高記録と言われている83年大会の日体大・谷口選手の残した記録とも距離の違いを考慮するとほぼ並ぶ物でした。(谷口選手の時代と現在とでは距離の違いは諸説ありますが、86年の距離延長が公式の通りだとした場合)

この3年生の時は当然区間賞も獲得し、現役山下りランナーの第一人者になります。



4年生の時にもまた13位から7位へと上がるレースで、今度は往路のタイム差順のスタートだった為、リアルな6人抜きを披露。

タイムを58分01秒まで伸ばし、2年連続の区間新記録を達成します。

6区のコースは15年大会から約20m延長されており、それまでのコースと比べると3秒〜4秒は余計にかかる計算になります。

つまり、秋山選手の出した58分01秒という記録は、14年までのコースならば夢の58分切りとなる、57分57秒〜58秒の記録に相当します。

また、距離の違いがはっきりとしていないとはいえ、谷口選手の記録もほぼ超えたと見て良いと思います。



これまでに出された区間新記録。

99年に神奈川大・中澤選手の出した58分06秒は、谷口選手の記録と比べると、86年の距離延長が公式通りだと僅かに及ばないものでした。

01年の大東大・金子選手の58分21秒や、11年駒大・千葉選手の58分11秒はコースの違いを考慮しても中澤選手のタイムにも届いていません。

区間新記録とは言っても、谷口選手と並ぶタイムと超えるタイムを連発した秋山選手と、他の選手では重みが全く違うと思います。



歴代最速に並ぶ走りと、超える走りを連発。

区間新記録で区間賞獲得を連発。

58分一桁の記録を連発。

4年時の58分01秒は数年前のコースならば57分台に相当。

2年時の59分29秒も十分に好記録。

セカンドベストの58分09秒とサードベストの59分29秒も、現時点でのセカンドベストランキング、サードベストランキングの1位です。

4年連続で出場する事が出来なかったという問題はありますが、その点を差し引いても秋山選手の残した実績は「山下り最強ランナー」と呼ぶに相応しい物だと思います。





前のページに戻る

「箱根駅伝の話」に戻る