山の名選手たち 山上り5区編



90年代以降に使われた5区のコースの歴史

95年大会以前の名選手

小林雅幸 (早大)

近藤重勝 (神奈川大)

勝間信弥 (神奈川大)

横田一仁 (山梨学大)

柴田真一 (東海大)

松下龍治 (駒大)

藤原正和 (中大)

杉山祐太 (拓大)

吉村尚悟 (神奈川大)

野口英盛 (順大)

中井祥太 (東海大)


今井正人 (順大)

駒野亮太 (早大)

柏原竜二 (東洋大)

服部翔大 (日体大)

神野大地 (青学大)





90年代以降に使われた5区のコースの歴史

84年〜99年コース
1984年 前年から0.1km延長され、20.6kmのコースとしてスタート。

1991年 コースの再計測の結果20.7kmに表示が改められる。



00年〜05年コース
2000年 コース終盤に通っていた旧街道を通らないルートに変更され、新コースになる。
距離は僅か4m長くなる。
距離表示は変わらず20.7km。

2005年 コースの再計測の結果20.9kmに表示が改められる。



06年〜14年コース
2006年 小田原中継所の位置が東京よりに2.5km移動し、その分距離が延長され、新コースになる。
距離表示は23.4km。



15年〜16年コース
2015年 函嶺洞門を迂回する為コースの一部が変更になり、新コースになる。
距離は約20m長くなる。
距離表示は23.2km。
同時に行われた再計測の影響で、距離表示は0.2km短くなっておりややこしい。



17年〜コース (今回該当する選手はいませんが一応紹介)
2017年 小田原中継所の位置が2005年までとほぼ同じ地点に移動。
距離表示は20.8km。
00年〜05年コースとの違いは、函嶺洞門迂回の為約20m長くなっている。
他にも陸上雑誌の情報によると小田原中継所の中継ラインの位置が変わっているとの事。





95年大会以前の名選手

私が駅伝オタクとして見てきたのは1996年大会以降なので、それ以前の時代は書籍からの知識ですが、84年〜99年コースで大活躍した選手には、1990年〜1993年にかけて出場した大東大の山上りの名人・奈良修選手があげられます。

奈良選手が1992年に出した記録1時間11分13秒は、その後4年間区間記録として残りました。

他には1985年、1986年に区間賞を獲得した早大の木下哲彦選手が1時間11分59秒、1時間12分01秒と80年代とは思えないようなタイムを連発しています。





小林雅幸 (早大)

(84年〜99年コース)
96年 区間1位 1時間10分27秒 区間新記録



96年大会、山上りに早大の小林選手が登場し、駅伝ファンを驚かせました。

当時の5区は完全な「上り坂の職人」の区間であり、平地で高い走力を持つ小林選手が5区に来ると予想出来た人は少なかったはずです。

当時、駅伝オタクになったばかりの私も、小林選手の5区にはびっくりしました。

なにせ小林選手は、このシーズンの全日本大学駅伝の1区で、アフリカ人選手を相手にして圧勝した程の実力者。

箱根駅伝では前年同様に4区か、もしくは全日本のように1区への投入もあるのではないかと、考えていました。



5区に出場した小林選手は、トップでスタートするとそれまでの大東大・奈良選手の持つ区間記録を上回るペースで山をかけ上り、46秒も塗り替える区間新記録を樹立し、往路優勝を達成します。

最大のライバルの中大や、すでに途中棄権をしたものの、実力的にはライバルチームだった神奈川大や山梨学大との差を1分半〜2分半も広げる強さを見せつけました。



1万mのベストタイムは28分09秒。当時の日本人学生で歴代3位の走力を持つ小林選手の5区での活躍は、平地のスーパーエースが5区でも活躍出来る事の証明にもなりました。

小林選手はたった1回だけのチャレンジで、山は適性こそが最も重要というそれまでの5区の常識を覆し、その後は5区に出場する事はなく大学を卒業して行きましたが、残された記録「1時間10分27秒」はその後に5区を走る選手達の大きな目標となり、別格の大記録として語り継がれる事になりました。





近藤重勝 (神奈川大)

(84年〜99年コース)
94年 区間2位 1時間13分41秒
95年 区間1位 1時間13分21秒
96年 区間2位 1時間11分59秒
97年 区間1位 1時間13分31秒



早大の小林選手が結果的には1回しか5区で活躍する事がなかったのに対して、4年連続で活躍したのが神奈川大の近藤選手です。

1年生と2年生の時は、まだ私が駅伝オタクになる前ですから、詳しくはわかりませんが、区間2位、1位と快走を連発しました。



3年生の時に近藤選手はベストタイムの1時間11分59秒を記録します。

この時はチームが4区で途中棄権をした直後で、最悪と言っても良い状況でした。

初優勝を目指していたのにチームが途中棄権をし、最下位のチームが過ぎた後に、襷を受け取る事もなくスタートするという、戦意喪失をしてもおかしくない状況。

そんな中で前年を遥かに上回るベストタイムを叩き出す走りには、真の強さを感じました。

ちなみに、当時のルールでは途中棄権後に走る選手も正式な参加が認められていました。

近藤選手の3年生の時の順位とタイムは、参考記録ではなく、公式記録です。



4年生の時はトップで襷をもらい、独走で最後の5区をかけ抜けて往路優勝を達成し、区間賞も獲得しました。

この時は区間2位には中大の実力者である尾方選手が入ったので大差はつきませんでしたが、区間3位に対しては3分弱の大差がつきました。

結果的には中大以外を優勝争いの圏外まで突き放し、神奈川大の初の総合優勝に多大な貢献をしました。

向かい風が強く、区間タイムは伸び悩みましたが、もし風がなければ1時間11分切りの可能性もあったのではないか?と、感じさせられる程の快走でした。

4年間の5区平均区間順位1.5位という記録を残して卒業して行った近藤選手は、真の山上りのスペシャリストと言える名選手だと思います。





勝間信弥 (神奈川大)

(84年〜99年コース)
98年 区間2位 1時間11分28秒
99年 区間11位 1時間16分43秒



5区で大逆転往路優勝をする1年生。

現在の視点で見ると、「元祖柏原」と言えるような活躍を見せたのが98年にデビューした勝間選手です。



98年大会の5区、1年生の勝間選手は先頭と2分46秒差の4位で襷を受け取りました。

2秒前には4年連続山上りに挑む中大の尾方選手もスタートし、2人で前を追います。

尾方選手のムラのあるハイペースに惑わされずに好ペースを維持する勝間選手は、やがて尾方選手を引き離します。

4年連続で5区を走り、過去3度の成績が区間3位、3位、2位という上りのスペシャリストを、1年生が引き離したのです。

勢いに乗る勝間選手は、小田原中継所では2分46秒差のあった早大を、14km手前で軽々と抜き去り、19km過ぎにはトップに上がっていた駒大も抜き去り、大逆転の往路優勝を達成。

90年台の箱根駅伝の中でも指折りのド派手な走りで箱根デビューをしました。

山梨学大の横田選手に敗れ、区間賞は3秒差で逃したものの、そのタイムは5区の歴代4位というハイレベルな物でした。



2年時は区間11位に沈み、3、4年生の時は出場も出来ずと、1度の爆走のツケは大きかったようです。

しかし、勝間選手の1年生の時の走りは、その後に続く山上りでの逆転劇の先駆けとして、5区を語る上ではかかせない偉業と言えます。





横田一仁 (山梨学大)

(84年〜99年コース)
98年 区間1位 1時間11分25秒
99年 区間8位 1時間15分59秒



98年大会、3年生の横田選手は山上りに初挑戦しました。

そのシーズンの全日本大学駅伝の2区で、区間新記録で区間2位という結果を出している横田選手は、その走力を武器に山をかけ上り、6位でスタートし、2人抜きで4位に上がる活躍を見せました。

この年は、神奈川大の勝間選手が4位から首位を奪う逆転往路優勝をしたため、その陰に隠れてしまいましたが、区間タイムでは横田選手が3秒勝ち、区間賞を獲得しました。

この年の横田選手のタイムは1時間11分25秒で、これは当時の歴代3位にあたり、区間記録からは58秒差でした。

早大の小林選手が区間記録を出した96年大会以降、小林選手の記録から1分未満のタイム差で走った唯一の例になります。



4年生の時の99年大会は、区間8位に終わります。

スタートしてすぐに転倒するなど、本調子には程遠く、前年のような軽快な走りを見せる事は出来ませんでした。

箱根5区の歴代3位記録と、当時はまだエース区間とは言われていませんでしたが、全日本2区で歴代2位記録を残した横田選手は、知名度こそあまり高くはありませんが、山梨学大の日本人選手では歴代でもトップクラスの名選手と言えると思います。





柴田真一 (東海大)

(84年〜99年コース)
99年 区間1位 1時間12分35秒
(00年〜05年コース)
00年 区間1位 1時間11分36秒 新コース区間記録
01年 オープン 1時間18分36秒



99年大会、東海大の柴田選手は1年生で5区区間賞獲得という快挙を達成します。

2000年大会では、前年よりも速いペースで山を上り、6位から一気に首位を奪いました。

後半になってから駒大の松下選手に再逆転を許したものの、前半に飛ばして稼いだタイムにより見事に2年連続の区間賞を獲得しました。

柴田選手は84年〜99年コースでの最後の区間賞獲得に引き続き、00年〜05年コースでの最初の区間賞獲得者ともなり、また新コースでの初代区間記録保持者として名を残しました。



1、2年生で大活躍を見せた柴田選手ですが、3年生の時はチームの途中棄権後に走る事になりオープン参加ですが、区間14位相当、向かい風の影響もありますが、タイムは前年よりも7分も遅い記録に終わっています。

4年生の時は出場する事が出来ず、結局箱根駅伝で活躍できたのは1、2年生の時だけという結果でした。

柴田選手の戦績は、才能のある選手でも4年連続で活躍し続ける事は難しいという、箱根駅伝の厳しさを表しているような気がしました。





松下龍治 (駒大)

(00年〜05年コース)
00年 区間4位 1時間12分02秒



2000年大会の5区では駒大のルーキー松下選手が見事な快走を見せました。

3位から2チームをかわして首位を奪います。

その後、後方から猛烈な勢いで飛ばしてきた東海大の柴田選手に抜かれたものの、無理に着かずに相手を先行させ、勝負どころで一気に抜き返して、往路優勝を達成しました。

区間順位は4位とやや物足りないですが、区間1位とは26秒の僅差でした。



1年生選手の逆転往路優勝というと、この2年前の神奈川大の勝間選手を彷彿とさせますが、勝間選手は若い選手特有の勢いで勝負を決めた感がありますが、松下選手は1年生とは思えないほど冷静で、クレバーな走りでした。

松下選手が1年生の時に見せた逆転劇は、後に花の2区や準エース区間の4区、山下りの6区ですらも好タイムで走ってしまう箱根駅伝史上に残るオールラウンダーが、その巧さの片鱗を見せた走りと言えると思います。





藤原正和 (中大)


(00年〜05年コース)
00年 区間1位 1時間11分36秒 新コース区間記録
01年 区間2位 1時間13分51秒
02年 区間3位 1時間14分36秒



中大の大エース藤原選手は、後に2区の区間賞も取りますが、最初の3年間は5区を走りました。

1年生の時は8位でスタートし、前半を抑えて後半からペースを上げる走りで4人を抜き4位へジャンプアップしました。

前半のタイムは東海大・柴田選手から大きく劣っていたものの、後半のペースアップでぴったりとタイムが追い付き、柴田選手と同タイムで区間1位となり、新コースのもう1人の区間記録保持者になりました。



そして2年生の時は、3位でスタートすると、強い向かい風の中で前を行く法大、順大を追いました。

中盤までは抑え気味のペースでレースを進めましたが、上りの最高点を越えて下りになると、ペースアップをし、あっという間にトップに迫ってきました。

ラスト2km程の地点で法大を抜き、追いすがる順大を突き放して逆転往路優勝を達成しました。

この時は意外にも区間2位でしたが、1位とは2秒という僅差でした。

3年生の時は、本調子ではなく区間3位となり、1位からも大差をつけられており、本来の力を発揮出来ませんでした。



1年生の時は区間賞を獲得したものの、逆転劇を演じた駒大・松下選手の陰に隠れてしまい、2年生の時は自らが逆転劇を演じたが、区間賞は他の選手に取られてしまった藤原選手。

A選手が逆転優勝、しかし区間賞はB選手というパターンで、A選手側とB選手側の両方を経験した貴重な選手と言えます。



余談ですが、90年代に中大を応援していた私は、当時の中大の山上りのスペシャリストだった尾方選手が往路優勝のゴールテープを切るシーンを何度も何度も夢想していました。

結局、現実にはそのシーンは訪れませんでしたが、藤原選手の逆転劇にはまるで叶わなかった夢が叶ったような喜びがありました。

数多くある箱根駅伝の思い出の中で藤原選手の逆転往路優勝は個人的に1番印象深い走りでした。





杉山祐太 (拓大)


(00年〜05年コース)
01年 区間1位 1時間13分49秒



中大の藤原選手が逆転往路優勝をした年に、後方でひっそりと区間賞を獲得していたのが拓大の3年生杉山選手です。

12位でスタートして10位に上がるという、かなり地味な位置でしたので、テレビに映る事もほとんどないままレースを終えてしまいましたが、スタート時は当時のシード圏内に当たる9位までは4分28秒の差がありましたが、杉山選手が往路のゴールに到達した時点では 13秒差まで縮まっていました。



区間賞を取りながら、逆転往路優勝をした選手の陰に隠れてしまうパターンには、98年の山梨学大・横田選手や、00年の中大・藤原選手も当てはまりますが、杉山選手は特に不運でした。

なぜなら、横田選手や藤原選手はその区間タイムのレベルが高く、歴代記録の上位に名前を刻む事が出来たのに対して、杉山選手が区間賞を取った01年大会は強烈な向かい風が吹いた年なので、区間タイムの価値も良くわかりませんでした。

しかし、1万mで28分17秒の走力を持つ藤原選手を相手にして勝ち取った区間賞ですから、価値が低いわけはありません。

向かい風がない中で5区を走る杉山選手が見たかったけど、翌年の大会はチームが予選で敗退し、その願いは叶いませんでした。
(実際には翌年の02年大会も向かい風が吹いたけど・・・)





吉村尚悟 (神奈川大)

(00年〜05年コース)
02年 区間2位 1時間13分32秒



1万mで28分30秒のベストタイムを持つ、当時の神奈川大の歴代最速ランナーが吉村選手です。

02年大会、神奈川大の2年生吉村選手は5区に出場しました。

3位でスタートすると、16km過ぎにはトップの駒大に追いつき、粘る駒大を突き放しチームを逆転往路優勝へと導きました。

区間2位ではあったものの、区間3位には1分以上の差をつける強さでした。

前年と同じくこの年も向かい風が吹き、吉村選手の区間タイムの価値が良くわからなかったのは残念でした。



98年から02年にかけての5大会中、4回目の逆転往路優勝であり、コースが大きく延長される前の最後の逆転劇を演じた選手でした。

5区の話ではありませんが、逆転往路優勝の翌年、3年生になった吉村選手はつなぎ区間の3区に出場しました。

吉村選手の実力を考えれば、好調ならば5区か2区への出場は確実だったと思われます。

もし2区ならば、その区間で首位争いをした中大・藤原選手と駒大・松下選手の近くで襷を受け取る事になるので、もしかしたら山上り逆転優勝トリオによる花の2区での首位争いが見れたかも知れません。

結局そうなる事はありませんでしたが、本当に惜しかったなと思ってしまいました。

実現していたら、それは100年に1度もないようなレベルのレアな光景だったでしょうから。





野口英盛 (順大)

(00年〜05年コース)
02年 区間1位 1時間12分32秒



02年大会の5区。逆転往路優勝をした神奈川大の吉村選手の後方で、区間1位の走りをしたのが順大の4年生野口選手です。



逆転往路優勝をした選手が区間2位以下で、後方を走った選手が区間賞を獲得するというケースは過去にも何度もあり、山梨学大・横田選手、中大・藤原選手、拓大・杉山選手、どのケースも区間賞を獲得したのに逆転劇の陰に隠れてしまうというパターンでした。

しかし野口選手は違いました。

区間1位の選手と、逆転往路優勝をした選手の区間タイムの差が、過去のパターンでは、僅差だったのに対して、02年大会の野口選手は2位に1分差もつけているのです。

1万mで28分30秒の力を持ち、逆転往路優勝をした神奈川大の吉村選手を相手にして1分差です。

しかも、15.5kmにある芦ノ湯のチェックポイントでは1分21秒も吉村選手を上回っており、次元の違うペースでした。

そのハイペースぶりはテレビカメラからも注目され、圧倒的な速さで5人を抜く姿が放送され、先頭の往路優勝争いの陰に隠れる事なく、凄い存在感を放っていました。



向かい風の影響でタイムはあまり伸びませんでしたが、その走りのレベルの高さは圧倒的でした。

明確な根拠はありませんが、野口選手の爆走は、旧コース時代の96年に早大の小林選手が1万m28分09秒の走力を生かして1時間10分27秒を出した時の走りに匹敵するレベルだったのではないかと感じました。

野口選手が1回しか5区を走らなかった事と、その1回が向かい風の年だった事が残念でした。

もしも02年大会で向かい風が吹かなかったら、もしも野口選手が複数回5区を走っていたら、「初代山の神」は、後年現れる順大の後輩の今井選手ではなく、野口選手だったかも知れません。



ちなみにネットスラングの「神」は2002年頃には既に2ちゃんねるなどで使われていた事も記載しておきます。





中井祥太 (東海大)

(00年〜05年コース)
03年 区間1位 1時間11分29秒 区間新記録
04年 区間2位※ 1時間12分54秒
※区間1位はチームはオープン参加だが区間成績は認められる日本学連選抜の選手



03年大会、陸上雑誌によると当時1年生の中井選手は5区の設定タイムを1時間12分30秒として申告し、コーチから箱根をなめるなと怒られ、1時間13分30秒に訂正したそうです。

まだこの時点では、中井選手の才能には本人もチーム関係者も気づいていなかったようです。



当時の5区の区間記録は1時間11分36秒。東海大の柴田選手と、中大の藤原選手が同タイムでマークした記録でした。

5区に出場した1年生の中井選手は、10位でスタートしてから5人をごぼう抜きし、5位へ上がる走りを見せます。

前半から飛ばした柴田選手、後半にペースアップをした藤原選手と比べて、バランスの良い見事なペース配分で走り続け、ゴール地点では両選手の記録を7秒上回る1時間11分29秒を記録しました。

1年生で区間新記録という、最高の形で箱根にデビューしました。



翌年は5区で区間2位となり、その年から新設されたMVPを逃す事になりました。

中井選手の実力ならば、3年生か4年生の時には必ずMVPを受賞するだろうと思っていましたが、その後の中井選手は活躍を見せる事はなく、結局箱根駅伝に出場したのは、1、2年生の時だけでした。

奇しくも東海大の先輩である柴田選手と似たような流れで箱根路から消えてしまった中井選手。

1年生で区間新記録を出した逸材のその後としてはとても残念でした。

柴田選手や、神奈川大の勝間選手の時も思いましたが、活躍し続けるというのは、本当に難しい事なんだと感じさせてくれました。





今井正人 (順大)

(00年〜05年コース)
05年 区間1位 1時間09分12秒 区間新記録
(06年〜14年コース)
06年 区間1位 1時間18分30秒 新コース区間記録
07年 区間1位 1時間18分05秒 区間新記録



2005年大会では、ついに山上りの5区に真打ちが登場しました。

順大の2年生今井選手が5区にデビューし、前半から驚異的なペースで飛ばしました。

その時の衝撃は今でも忘れられません。

大平台のチェックポイントの通過タイムが22分28秒。

これは凄いを通り越して異常なほどのハイペースであり、ペース配分を間違えていると感じました。

参考までに、96年に早大の小林選手が1時間10分27秒という5区の事実上の最高記録を出した時の大平台通過タイムは、22分40秒とテレビ放送内で語られています。

小林選手は1万mで28分09秒の走力を持つ選手ですから、27分台の選手ならばともかく、29分台のベストタイムしか持っていない今井選手が、大平台を22分28秒で通過するのは無謀としか思えませんでした。

しかし、その後も今井選手のペースは全く鈍りません。

小涌園を通過し、タイムは39分14秒!

小林選手が40分09秒なので、鈍るどころか、むしろ格段にペースアップしています。



この文章を書いている氷川という男は、2ちゃんねるなどの掲示板に書き込みをする事はそうそうない性格ですが、この時ばかりは興奮してしまい、「今井がとんでもないペースで走ってる」と言うような事を2ちゃんねるの陸上関係のスレッドに書き込んでしまいました。



今井選手の凄さに、おそらくはテレビ局スタッフも混乱したのでしょう。

「山上りの貴公子誕生です」

「人間ブルドーザーと言っていいでしょう」

「人類が考え得ないようなとてつもない区間記録が生まれそうです」

よくわからない言葉が舞う中、今井選手は超ハイペースを維持したまま往路のゴールへと突き進みます。

ゴール地点の200mほど手前を走る今井選手。

テレビ画面の右下に区間タイムが表示されます。

1時間08分45秒、46秒、47秒・・・。

5区のタイムとしては今まで見た事がない、現実感のない数字がそこには表示されていました。



数十秒後、今井選手は往路のゴールに到達。

区間記録は1時間09分12秒。

東海大・中井選手の公式の区間記録を一気に2分17秒短縮し、早大・小林選手の事実上の最高記録を1分15秒も上回る激走。

区間2位に3分38秒差をつけるという桁外れの強さでぶっちぎりの区間1位となり、15位から4位へ、5区では最多となる11人抜きを見せました。



それまでの事実上の最高記録だった小林選手の1時間10分27秒という記録は、記録を出した96年以降、8年間に渡り多くの強豪選手の挑戦を跳ね返して君臨し続けました。

新旧コースを通じて、97年〜04年の8大会で、小林選手のタイムから1分未満の差に迫れたのはたった1例で、しかも58秒差でした。

そんな偉大な記録を一気に1分15秒も上回った今井選手の走りには脱帽でした。

駅伝の知識がある人間ほど度肝を抜かれる走りだったと思います。

しかしたった1年後、翌年の大会から5区のコースが延長され新コースとなってしまいました。

今井選手の大記録は誰にも越えられないまま、誰にも挑まれる事もないまま消えてしまいました。



旧コースで驚異の大爆走を見せてくれた今井選手は、3年生以降に挑む事になった新コースでも爆走を連発します。

3年生の時には冷たい雨が降る中で未知のコースに挑み、序盤はペースを抑え、中盤以降にペースアップをする走りで、2分28秒前にスタートした山梨学大を逆転し、往路優勝を達成しました。

今井選手はこの年も区間賞を獲得し、新コースの初代区間記録保持者になります。

区間2位にはとても上手い走りを見せた駒大の村上選手が入ったため、1分差しかつきませんでしたが、区間3位には1分49秒差、区間4位には2分48秒の大差がつき、前年ほどではなくても、今井選手の強さは圧倒的でした。

「山の神」のニックネームがついた4年生の時は、気象条件の良い中ではあったものの、前年よりもハイペースで飛ばし、4分以上前にスタートした東海大を抜いて2年連続の逆転往路優勝を達成し、自身の区間記録を25秒更新する、区間新記録を樹立して、有終の美を飾りました。



新旧のコースを通じて3度5区を走った今井選手の戦績はほぼ完璧と言っても良い物でした。

唯一気になったのは、旧コースの時に出した記録があまりに凄すぎて、新コースでその記録を超えられなかった事でした。

旧コースの20.9kmで出した1時間09分12秒を、2.5km長い新コースに換算すると、1時間17分28秒になります。

旧コースの記録は最後まで前を追い続けた時の物であり、新コースでの記録は、途中で単独の首位になるレース展開だったので、モチベーションの問題もあったと思います。





駒野亮太 (早大)


(00年〜05年コース)
05年 区間12位 1時間15分36秒
(06年〜14年コース)
07年 区間8位 1時間21分55秒
08年 区間1位 1時間18分12秒



「初代山の神」の順大・今井選手が卒業してから「2代目山の神」の東洋大・柏原選手が登場するまでの間の年に大活躍をしたのが早大の駒野選手です。

駒野選手は1年生の時に旧コースの5区で区間12位、3年生の時は新コースで区間8位とそれほど目立つ選手ではありませんでしたが、4年生の時の08年大会は違いました。

前半から区間記録に匹敵するペースで飛ばし、5人を抜いて首位を奪い、早大を12年ぶりの往路優勝に導きます。

最後までペースはほとんど落ちず、区間記録まであと7秒に迫る歴代2位のタイムをマークしました。



初めて5区に挑んだ1年生の時は、区間1位の今井選手との差は6分24秒。

2度目に挑んだ3年生の時は、今井選手との差は3分50秒。

以前は全く勝負にならなかった「山の神」の走りに肉薄する成長ぶりには心底びっくりしました。

08年大会が終了した時点で、駒野選手のタイムは歴代2位であり、歴代3位には1分18秒という大差がついていました。

同じコースが使用された最後の年である14年大会が終了した時点まで時代を進めてみても、駒野選手のタイムは東洋大・柏原選手、順大・今井選手の山の神コンビに次いで歴代3位であり、歴代4位には1分04秒差がついています。

駒野選手もまた、他の強豪選手側よりは、山の神側のレベルの選手という気がします。





柏原竜二 (東洋大)

(06年〜14年コース)
09年 区間1位 1時間17分18秒 区間新記録
10年 区間1位 1時間17分08秒 区間新記録
11年 区間1位 1時間17分53秒
12年 区間1位 1時間16分39秒 区間新記録



2代目山の神こと東洋大・柏原選手は、5区に限らず全区間を通じて、箱根駅伝史上最も偉大な選手と言って良いかも知れません。

1年生の時には先頭と4分58秒の差をつけられた9位でスタートします。

前半からガンガン飛ばした柏原選手は、19km過ぎに先頭の早大に追いつくと、その後の早大との競り合いを制して往路優勝を達成しました。

5分近い差を1人でひっくり返すという非常識な程の強さを見せつけ、さらにその区間タイム1時間17分18秒は、初代山の神こと順大の今井選手が、最上級生の時に残した区間記録を一気に47秒も塗り替えるものでした。

レース序盤に、区間新記録に向けての柏原選手のコメントと思しきものが、アナウンサーを通じて紹介されていました。

「対策は全くありません。真っ向勝負で行きます」

パワーと気迫で最後まで押し切ったような走りは、まさに有言実行でした。



2年生の時もまた、先頭との差4分26秒をひっくり返し、往路優勝。

この時には、5区の中盤には単独の先頭に立っていて、その後は目標がなにもない状態だったにも関わらず、前年のペースを上回り、2年連続の区間新記録を達成します。

しかも、前年と比べて向かい風が吹いているにも関わらずです。

区間2位に4分08秒という歴史的な大差をつける怪物ぶりであり、往路ゴールでは2位のチームに3分36秒の大差がつき、東洋大の総合2連覇をほぼ決定させてしまう走りでした。



3年生の時は、先頭の早大と2分54秒差の3位でスタートして、またも前を行くチームすべてを抜き去り、3年連続の逆転劇を達成。

この時は区間新記録は出なかったものの、それでも初代山の神のベストタイムを上回る速さであり、当然区間1位となります。

区間2位に約2分の差をつけ、不調と言われていたシーズンでしたが、それでも桁外れの強さでした。

4年生の時には、先頭でスタートし、終始トップを独走。

自身の記録を29秒も塗り替える区間新記録を出して有終の美を飾り、チームも4年連続の往路優勝を達成。

往路2位以下のチームを遥か後方に追いやり、東洋大の総合優勝の決定打にもなっています。

4年間を通じて完璧としか言い様のない戦績を残しました。



箱根駅伝初登場の時から圧倒的な実力を持っていた柏原選手ですが、しっかりと成長もしているのがまた凄い所です。

1年生のタイムと4年生のタイムを比べると39秒伸びていますが、1年生の時は後方からスタートして前を追い続け、最後はトップ争いを繰り広げた末に出した記録ですが、4年生の時は最初から最後までトップを独走して出した記録でした。

駅伝では後方から追いかけるのは、焦りから自滅してしまう事が多々あり、基本的にはマイナスです。

しかし選手の性格や、選手間の力関係が上手くハマった時には、追いかける側にとってプラスになる事もあります。

またこれも選手の性格に左右されますが、トップ独走状態は安定して好走するには向いていますが、一滴残らず力を振り絞るような走りには向いていません。

そう考えると実際の実力の伸びは39秒よりも、もっと大きかったと思います。



柏原選手は、箱根駅伝に次いで大きな規模の学生駅伝である全日本大学駅伝の2区を走った時には、世界陸上日本代表にまで選ばれた選手の区間記録に肉薄し、8区を走った時にはケニア人選手にすら勝ち、他の日本人選手には1分以上の差をつける圧倒的な強さを見せたこともありました。

平地ですでに超一流、そして同時に上りの天才でもあった柏原選手。

こんな凄い選手は次にいつ頃登場してくれるのか、かなり先の未来になってしまうのではないかと、柏原選手の最後の箱根駅伝を見ていた時にはそんな寂しさを感じてしまいました。





服部翔大 (日体大)

(06年〜14年コース)
13年 区間1位 1時間20分35秒
14年 区間2位 1時間19分17秒



東洋大の柏原選手が卒業した次の年に行われた13年大会。

他を圧倒するような選手は、もう当分は現れないだろうと予想していたら、予想外に爆走したのが、日体大3年生の服部選手でした。

2位からの逆転往路優勝。

小田原中継所の時点での1分49秒差を跳ね返して、往路ゴール地点では逆に2位に2分35秒の差をつける圧倒的な強さでした。

強い向かい風に阻まれて記録は低調だったものの、区間2位に1分57秒差をつける走りは、新たな山の神と呼んでも良いほどのインパクトでした。

この年の日体大は服部選手が稼いだリードを生かして、復路もトップを独走し、30年ぶりの総合優勝を達成しています。



陸上雑誌に、服部選手のタイムについて、例年並の気象条件なら1時間18分前後のタイムが出ていたことが予想出来る、と書かれていました。

そうすると2分半くらいが風の影響という事になります。

この13年大会と、その前年の12年大会の区間10位の選手のタイム差は2分33秒ですから、やはり風の影響は2分半くらいあったかも知れません。



逆転劇翌年の14年大会。

4年生になった服部選手は、今度は向かい風のない中で再び5区に挑みました。

先頭から大差のついている7位からのスタートで、3人抜きの好走はしたものの、前年のような驚異的な迫力はなく、1時間19分17秒という記録で、区間順位も2位という成績でした。

服部選手よりも1秒早いタイムで走って区間賞を取った東洋大・設楽選手が1万m27分台ランナーであることを考えれば、このタイムは素晴らしくレベルの高い記録と言えます。

しかし、服部選手が全力を振り絞って出したタイムとはどうしても思えませんでした。

前年の向かい風の影響が予想ほどではなかったのか、7位という順位からのスタートで闘志が湧かなかったのか、本調子ではなかったのか、理由まではわかりませんが、3年生の時に桁外れの強さを見せた服部選手の5区のベストタイムが、1時間19分台で終わってしまったのは残念でした。





神野大地 (青学大)

(15年〜16年コース)
15年 区間1位 1時間16分15秒 新コース区間記録
16年 区間2位 1時間19分17秒



15年大会、3代目山の神が5区にデビューしました。

青学大・神野選手は、1万mで28分41秒の走力と、前年は花の2区でも好走した実績を持つ実力者でした。

しかし、過去には神野選手以上の平地での実績を持つランナーも多く5区に挑んでおり、この選手がこれ程の爆走をすると予想出来た人は少なかったでしょう。



2位でスタートした神野選手は、1秒後方にいた3位の明大・文元選手をあっという間に引き離します。

文元選手も平地で高い実績を持つ実力者であり、1万mのタイムでも神野選手とほぼ互角でした。

そんな実力者を、全く相手にしないでぶっちぎってしまった神野選手の走りを見た時に、この選手は何か普通ではないと感じました。



大きく腕を振って、ダイナミックなフォームで走る姿は、尋常ではない程の軽快さ、というか豪快さを感じました。

スタートから10km程走った地点で、46秒前にスタートした駒大を捉えます。

駒大の馬場選手もまた前回の5区を区間3位で走った実力者でしたが、神野選手にはほとんど付いていく事が出来ませんでした。

1人だけ次元の違う速さで走る神野選手は、前年までのコースの区間記録だった東洋大・柏原選手のペースすらも上回ります。

14.2kmの小涌園前では2位との差は早くも1分を超えて1分1秒差に。

18.4kmの芦之湯では2位との差は急激に拡大し、3分の大台を超える3分8秒差にまで広がります。

往路ゴールに到達した時には2位との差は4分59秒差にもなり、刻まれた区間記録は1時間16分15秒。

神野選手は前年までの区間記録である柏原選手のタイムを24秒上回り、15年大会からの新コースの初代区間記録を打ち立てました。



この15年大会から、コース序盤にある函嶺洞門の閉鎖に伴いコース変更がされていて、前年までと比べて約20m長くなっており、スピードを時速20kmとすれば、約3.6秒余計にかかります。

その事を考慮すれば、神野選手は柏原選手を27秒〜28秒は超えたと考えるべきでしょう。



日大・キトニー選手が1時間18分45秒というハイレベルなタイムで区間2位になっていますが、平地での走力では上を行くキトニー選手を相手に2分30秒の大差をつけた神野選手には驚異的な上り適性があったと考えられます。

キトニー選手が1万m28分02秒の実力者である事を考えれば、純粋に走力だけで1時間16分15秒という記録を出す為には、1万mでは28分切りは当然、27分切りの走力も求められるでしょう。

山上りに限れば、世界トップクラスのレベルの走りだったと言えると思います。

この年の青学大は、初の往路優勝を達成し、4分59秒という往路2位との差を考えると、神野選手の爆走により総合優勝争いもこの時点で決着が付いたと言えます。



最後の箱根となる16年大会ではトップでスタートして、そのまま2年連続の往路優勝を達成します。

2位との差を2分28秒から3分04秒へと、36秒広げるだけに留まり、前年と比べると地味でしたが、逆転が難しくなる差の目安である3分差のラインを超えた事は、総合優勝争いに与えた影響は大きいでしょう。

故障明けでも1時間19分17秒というタイムで走り切り、この2年前の14年大会の区間1位とほぼ同じくらいのタイムになります。



14年大会の区間1位は東洋大・設楽選手で、約20m短いコースを1時間19分16秒で走っています。

設楽選手の1万mのベストタイムは27分51秒で、箱根駅伝史上最強クラスの走力を持った選手でした。

箱根駅伝の歴史に名を残すレベルの実力者がその走力を武器に区間賞をもぎ取った時のタイムが1時間19分16秒であり、神野選手の4年生の時のタイムは、前年よりもずっと遅いとはいえ、それでも十分にスーパーエース級でした。

走った回数が2回だけなので、4年連続で爆走した柏原選手とどちらが山上りにおける最高の選手なのかは判断の難しい問題ですが、最速のクライマーが神野選手なのは間違いないでしょう。





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