全日本2区8区について

今年の大会から2区は新コースになりますが、17年大会まで使われた旧2区と8区について語ります。

私が駅伝の面白さに目覚めたきっかけが全日本95年大会の8区での逆転劇でしたので、8区には特別な思い入れがあります。

2区は90年代前半頃まではエース区間とまでは言えませんでしたが、90年代後半からはチームを代表するレベルの選手が数多く出場しており、8区と並ぶエース区間と化していました。



全日本では、1区の方が2区よりも距離が長くコース難度も上ですが、この区間は箱根の1区のリハーサルとして使われる事もある区間であり、また全員が同時にスタートして団子状態になりやすいので駆け引きの上手さも重要なポイントになります。

1区はエース級が全力を出して伸び伸びと走れる区間とは言い難いです。



18年大会からの区間距離変更では8区には変更がありませんでしたが、7区の大幅な距離延長により、おそらくですが8区の重要度は相対的に下がる気がします。

2区については2km以上も短い新コースになってしまい、エース級が出るのかは不透明です。

ただ1区が5km以上も短くなっており、もしかしたら2区の重要度は相対的に上がっているのかも知れません。

旧2区の距離は13.2km、新2区の距離は11.1kmであり、10km台前半の距離での2.1kmの差は大きく、記録を換算して旧2区と比較すると言った楽しみ方は出来なそうです。

コース変更は残念ですが、これを機に過去の全日本の2区と8区の記録についてまとめてみます。



主に2区が13.2km、8区が19.7kmと表示された1990年大会以降について語ります。





・2区について

90年大会〜17年大会のランキング表はこちら

私が駅伝オタクになる以前ですが、資料(日本学生陸上競技70年誌)によると、90年大会に13.2km表示になり、ここから13.2kmの2区の歴史は始まったようです。

しかし、88年大会で日体大・島津選手が出した記録が、96年大会までは区間記録として扱われており、79年大会〜89年大会の13.5kmの2区が、90年大会以降と違うコースなのか、再計測で表示だけが改められたのか、真相はわかりません。



90年〜96年の間は2区では39分を切る記録はとても珍しく、日体大・平塚選手、早大・櫛部選手、山梨学大・井幡選手、早大・渡辺選手、中大・榎木選手という、箱根でも活躍した著名な5人の選手が各1回ずつマークしただけでした。

榎木選手の出した38分43秒は、記録を出した95年大会では区間新記録とは言われず、翌年の96年大会でも区間記録は88年大会に日体大・島津選手が出した記録とされていますが、なぜか97年大会では区間記録として扱われています。

おそらくですが、96年大会と97年大会の間で、大会の規定が変わり、89年以前と90年以降を同コースとするか別コースとするかの扱いが変わったものと思われます。



97年大会で早大・梅木選手が38分05秒という当時は破格の区間新記録をマークします。

この年は39分切りが6人も出ており、一気に90年代の39分切りランナーの数は倍以上に増えました。

97年大会を境に、2区のレベルは急上昇します。

99年大会区間賞の山梨学大・古田選手や、00年大会区間賞の法大・徳本選手といった、大エース級の選手が2区に登場して伊勢路を沸かせました。

90年代前半までは8区と1区の次くらいの準々エース区間という扱いだった2区は、97年大会からは準エース区間を飛び越えて一気に8区と並ぶエース区間と化しました。



多数のエースが登場する2区の記録はその後も進化を続け、01年大会では駒大・松下選手が38分03秒を出して梅木選手の記録を更新すると、翌年の02年大会では山梨学大・カリウキ選手が初の38分切りを達成する37分57秒を記録。

05年大会では日大・サイモン選手が記録を37分46秒にまで伸ばしました。

しかし日本人選手も負けてはおらず、07年大会では早大・竹澤選手が37分42秒をマーク、10年大会では明大・鎧坂選手が更に記録を更新する37分38秒を出しています。

12年大会では山梨学大の1年生オムワンバ選手が区間記録を22秒も更新する37分16秒をたたき出し、もはや日本人学生には対抗するのは難しいと思わされるレベルに到達しますが、同じ年に区間2位に入った早大・大迫選手が37分25秒を記録し、その差を僅かな物に留めました。

日本人と留学生が張り合うように記録を塗り替えていったのも全日本2区の魅力だったと思います。



また、早大・大迫選手や中大・上野選手、箱根で区間新記録を連発した東海大・佐藤選手といった、箱根では花の2区を走らなかったスーパーエース選手が、伊勢路の花の2区には出場しているというのも特筆すべきポイントだと思います。



17年大会で13.2km区間としてはその歴史にピリオドを打ちましたが、90年大会〜17年大会の28大会の間に出された39分切り記録は合計127。

これは8区の60分切り記録の数128とほぼ並ぶ物でした。





・1989年以前の2区

79年〜89年の2区は13.5kmと表示されていて、その距離の2区で39分を切ったタイムは5回ありました。

坂本 充 38分43秒 日体大4年 1980年

島津 秀一 38分23秒 日体大4年 1988年11月

阿部 一也 38分45秒 国士大4年 1988年11月

岡本 和浩 38分59秒 日大3年 1988年11月

実井 謙二郎 38分31秒 大東大3年 1989年



この13.5kmの2区は、後の13.2kmの2区と比べて本当に0.3kmも距離が長いのか、それとも同じコースと距離なのに、再計測で距離表示だけが改められたのか、真相は不明です。

13.5kmでこのタイムならば、0.3km短い距離だと50秒程度は早くなるため、1980年代に後の13.2kmならば37分台に相当する記録がいくつも出ていた事になります。

88年1月までは1月に開催。88年11月から11月開催です。





・1年生39分切り記録

E・オムワンバ 37分16秒 山梨学大 2012年

柏原 竜二 37分44秒 東洋大 2008年

G・ダニエル 37分48秒 日大 2006年

大迫 傑 37分55秒 早大 2010年

塩尻 和也 38分05秒 順大 2015年

D・サイモン 38分06秒 日大 2004年

村山 謙太 38分23秒 駒大 2011年

村澤 明信 38分25秒 東海大 2009年

宇賀地 強 38分28秒 駒大 2006年

K・ムタイ 38分30秒 第一工大 2006年

我那覇 和真 38分38秒 神奈川大 2012年

上野 裕一郎 38分39秒 中大 2004年

塩澤 稀夕 38分44秒 東海大 2017年

渡辺 康幸 38分51秒 早大 1992年

北村 聡 38分51秒 日体大 2004年

新庄 翔太 38分53秒 中大 2011年

伊達 秀晃 38分58秒 東海大 2004年



1年生で39分を切った初の例は92年大会の早大・渡辺選手で記録は38分51秒です。

渡辺選手の12年後の04年大会、四天王と言われたスーパールーキー4人組のうちの3人に当たる中大・上野選手、日体大・北村選手、東海大・伊達選手と、彼らと同学年のケニア人留学生である日大・サイモン選手が39分切りを達成しています。

上野選手は、後に大学駅伝史上最強の選手とまで言われた渡辺選手の1年時のタイムを上回り、渡辺選手のタイムに並んだ北村選手、僅差に迫った伊達選手と共に健闘を見せましたが、38分06秒を記録したサイモン選手は上野選手に30秒以上の差をつけており、ケニア人選手の破壊力を見せつけられる形になりました。

06年大会では日大・ダニエル選手が1年生最高記録を37分48秒まで更新し、38分の壁を破っています。

こんな状況の中で、とんでもない日本人選手が登場します。

08年大会で2区に出場した東洋大・柏原選手です。

トップでスタートした柏原選手は飛ばしに飛ばし、37分44秒を記録し1年生最高記録をケニア人留学生から奪い返しました。

柏原選手のこのタイムは、世界陸上日本代表にまで選ばれていた早大・竹澤選手が前年に出した2区の区間記録に2秒差まで迫る物であり、この約2ヶ月後の箱根で新たな山の神として有名になりますが、実はその前から非凡な才能の片鱗を見せていました。

12年大会では中距離上がりの山梨学大・オムワンバ選手がそのスピードを爆発させ区間新記録となる37分16秒を出し、1年生最高記録を大幅に更新しています。

オムワンバ選手はその後は箱根2区や全日本8区に出場していましたが、元中距離選手故か長い距離では全日本2区で見せたほどのハイレベルな走りは出来なかったと感じました。

1年生でとてつもないレベルに到達した選手のその後としては残念でした。





・8区について

90年大会〜17年大会までのランキング表はこちら(18年大会以降は含めず)

90年大会から19.7km表示になっていますが、85年大会〜88年1月大会のアンカー7区と88年11月大会〜89年大会のアンカー8区の20.2km区間と、違いがあるのか、距離表示だけ違うのかは不明です。



89年大会では山梨学大・オツオリ選手が20.2kmとされている8区で58分52秒を記録します。

オツオリ選手は90年代以降も快走を連発し、19.7km表示になった90年大会、91年大会で59分48秒、59分16秒と90年代最高記録を連続で出しています。

92年大会では山梨学大・マヤカ選手が57分48秒を記録し、それまでの区間記録(58分52秒?59分16秒?どっちにしろ)を大幅に更新しました。



94年大会、95年大会では早大・渡辺選手が57分19秒と56分59秒を記録し、区間記録を2年連続で更新しています。

特に95年大会はトップとの差1分31秒を逆転する走りで有名です。この時に出された記録は2018年10月現在もこの区間の日本人最高記録です。



06年大会で山梨学大・モグス選手が56分31秒を出し、渡辺選手の記録を塗り替えました。

そして07年大会、モグス選手は神がかった走りを見せます。

シード権が与えられる6位までは4分以上の差の13位という状況でスタートしたモグス選手は、前年出した区間記録を上回るペースで飛ばします。

ゴールまで残り3.4kmの地点では7位に位置し、6位までは51秒の差まで詰めたものの、残りの距離を考えれば駅伝の常識ではシード権獲得は難しい状況でした。

しかしゴール前で大逆転し、シード権を獲得。

最後までペースの落ちなかったモグス選手は自身の区間記録を59秒も塗り替える、驚異の記録55分32秒をたたき出しています。





・1989年以前の8区

89年以前は20.2kmと表示されていて、90年大会以降よりも0.5kmも長いということになりますが、実際の所は不明です。

2区もそうですが、選手の区間タイムを見ると、90年大会以降と同じか、ほとんど変わらない距離だったのでは、という気がしてしまいます。

85年〜89年が20.2km表示で、60分切りは4回ありました。

笠間 三四郎 59分47秒 日大3年 1986年

島津 秀一 59分40秒 日体大2年 1987年

武田 裕明 59分48秒 日大3年 1987年

J・オツオリ 58分52秒 山梨学大2年 1989年

88年1月までは1月20日前後に大会が行われていて、アンカーは8区ではなく7区ですが、距離は同じ20.2kmです。



現在行われている11月とは気温がずいぶんと違い、箱根駅伝の疲れがある中での出場だったりと、現在とはかなり異なる位置づけのレースだったと思われます。





・1年生60分切り記録

D・ニャイロ 56分55秒 山梨学大 2015年

M・J・モグス 57分10秒 山梨学大 2005年

S・マヤカ 57分48秒 山梨学大 1992年

O・コスマス 58分33秒 山梨学大 2008年

K・キプゲノン 58分39秒 第一工大 2008年

吉川 洋次 59分08秒 東洋大 2017年

服部 勇馬 59分28秒 東洋大 2012年

菅野 邦彰 59分38秒 亜大 1994年

服部 翔大 59分38秒 日体大 2010年



8区は気温の高さもあり、1年生記録はケニア人と日本人の差が目立ちます。

92年大会で山梨学大・マヤカ選手が57分48秒を記録し、もう日本人1年生にはとても手の届かない領域に入ってしまいました。

その後、05年大会で山梨学大・モグス選手が57分10秒、15年大会では山梨学大・ニャイロ選手が57分の壁を破る56分55秒を記録しています。



日本人1年生では、94年大会で亜大・菅野選手が59分38秒区間4位の快走を見せ日本人1年生初の60分切りを達成しますが、チーム順位は11位でスタートして11位でゴールする地味なレース展開でした。

菅野選手の16年後の10年大会、日体大・服部翔大選手が菅野選手の記録に並びます。

しかしレース展開は、シードギリギリの6位でスタートしてシード圏外に落ちる展開でした。

12年大会では東洋大・服部勇馬選手が59分28秒を記録して日本人1年生最高記録を更新しますが、レース展開はトップでスタートして2位に落ちる展開でした。

日本人1年生最高記録を出す選手はなぜかチーム順位では報われないというジンクスが続いていましたが、2017年大会で東洋大・吉川選手が5位でスタートしてしっかりとシード権を守り5位でゴール。

日本人1年生最高記録となる59分08秒を記録し、ジンクスは破られました。



日本人1年生には、今後はまずは59分切り、そして留学生たちの記録に1歩ずつ近づいて欲しいですね。

しかし18年大会から7区がエース区間化しそうなので、8区のレベルは相対的に落ちてしまいそうなのが気がかりですが。





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